2004年

ーーー3/2ーーー 気が乗らない作業

 何かの計画を遂行しようとするとき、その計画を実施する過程の様々な局面で、気分が乗る部分と乗らない部分があるものだと思う。

 例えば登山。最も気分が乗るのは、頂上付近に達しつつあるとき。また、無事に下山して一杯やっているときも、気分が良い。それに引き換え、入山直後の、見通しのきかない長いアプローチは気がめいる。そして何よりも気持ちがダウンするのは、私にとっては、自宅で登山の準備をしているときである。家を出てしまえば、それは別の世界になる。しかし、家の中でザックに装備を詰めているときは、行きたくなくなるくらい、気が沈む。何故だろう。

 木工でも、似たような事が起きる。気分が良いのは、難しい組み立て作業が終わった瞬間。あるいは、刃物による加工が全て終了し、あとは塗装を掛けるだけとなったとき。はたまた、納品に出かけて、注文主からお褒めの言葉を戴いたとき。そして、代金の入金を確認したとき・・・

 逆に気が乗らないときは何時かと考えれば、私の場合間違い無く「木取り」のときだろう。「木取り」とは、製作の一番始めの段階で、原材料から必要な大きさの部材を切り出す作業である。

 なんであんなに嫌気がさすのか分からないが、とにかくなかなか前に進めない。原材料の板を前にして、ボーッとしたまま時が経つこともしばしばある。木取りが終わって加工に入れば、スルスルと仕事は進んで行く。何の迷いも無いし、渋滞することも無い。時が経つのも忘れて作業に没頭することもある。しかし、「木取り」だけは、何年やっても気が乗らない。

 一つの理由として、こんなことを考えてみた。「木取り」はその後の工程の全てに影響を与え、最終的な製品の出来映えをも決定する。他の工程とは違って、木取りの失敗だけは取り返しが付かない。だから気が乗らないのかも知れない。要するに臆病なのである。

 金属やプラスチックとは違って、木という材料は同じものは二度と手に入らない。言わば一期一会である。木工というものは、加工の面では同じことをくり返せても、材料に関しては再現性の無い世界である。もう一度やり直そうとすれば、それは既に別のものになってしまうのである。

 全く同じものなど世の中には無いが、木はことさらそれで作業者を悩ませる物質である。



ーーー3/9ーーー 家具は思い切って使う

自宅の居間に置いてあるテーブルは、私が作ったものである。自宅で使っているというのは成り行きであって、もともと商品として製作したものだから、出来は良い。しかし、このテーブルは、普段は使われていない。

 我が家は二世代住宅になっており、私の家族と両親は、普段は別々に生活をしている。二世代別々の区画の中間に位置する居間にあるテーブルは、末娘が宿題をするときに使うくらいで、食卓として使うことは稀であった。家族の誕生日や正月など、特別の日にだけ、全員が居間に集まり、この大テーブルを囲んでパーティーをするという使い方であった。

 このテーブル、ずっと長い間白い布と透明なビニールがかけられていた。たまに家族が集まって食事をするときでも、そうであった。私はそんなことをせずに、木肌が露出するような使い方をすべきだと主張したのだが、家族の中には「傷や汚れが付くと勿体無い」と言って、カバーをしての使用に固執する派が存在した。私が作ったものを大切に扱おうという気持ちは、私にも有り難く感じられ、それに対抗して自説を通すこともしないまま、時は過ぎた。

 つい最近になって母が体調を崩し、検査のためにしばらく入院することになった。そのためしばらくの間、少なくとも夕食は全員が集まって居間の大テーブルで取ることになった。

 ここで私は、かねがね心に描いていた策をぶちまけた。すなわち、テーブルのカバーを外し、木肌に直接触れるような使い方に変えようと提案したのである。

 多少の抵抗意見はあったものの、「そうしてみても良いか」という方向にまとまり、ある日テーブルのカバーは外された。その晩の食卓は、かつてないほど美しかった。ムクの木のテーブルの素晴らしさは、やはり生の状態で使ってみなければ分からない。テーブルの上の食器も映えるし、料理も映える。そして、テーブルを囲む家族の表情も、いつもと違って見えた。

 丹精込めて作られたテーブルの、ムクの木肌の感触を確かめながら使う喜びを、そのとき私は改めて感じた。勿体無いとばかり言って、本来の使い方をしなければ、物の良さはいつまでも分からない。また、それはイメージだけでなく、自ら体験することによって初めて理解される。

 家内は、それでも神経質になって、子供がこぼしたわずかな汁も布巾で拭った。「どうしても気を使ってしまう」と言いながら。私はそれで良いと言ってやった。思い切って使う。しかし大切に使う。これが、物の素晴らしさを本当に引き出す使い方だと思うからである。




ーーー3/16ーーー 新作品の小机

                             

 このテーブルは、二月の末に組み立てが終わった。東京のお客様から注文を戴いた品物である。その後塗装を施して、この写真のような仕上がりになった。冬場は気温が低いので、塗装には日数がかかるのである。

 お客様は、ノート型パソコンを使うテーブルとしてお考えとのことであった。その目的で寸法を決められたようである。もともとこの形のテーブルは、パーソナル・テーブルという名前で私のレパートリーの中に有った。それを、今回の目的に合わせてサイズを大きくした。それによって、引き出しは二列となった。パーソナル・テーブルでは、引き出しの手掛けは掘り込みになっている。今回は引き出しが浅く、掘り込みでは似合わないのでノブにした。

 ノブは私が形を決めて轆轤師に作ってもらっている。材はシュリザクラといって、色が濃いサクラである。ノブは使ううちに手垢などが付いてくるので、色の濃い材を使うのが良いと私は考えている。ノブのサイズは、大きめである。シャレた雰囲気を演出するために、小さめのノブを使う木工家もいるが、私は使い勝手の点から、ある程度の大きさのノブが好ましいと考えている。特に年配の方には、摘むのではなく、しっかりと指がかかるノブの方が使い易いと思う。このノブのサイズが、既に私の作風の一部になっているとも言えるだろう。

 引き出しは、ダブテール・ジョイントという技法で組んである。これもいつも通りの方法である。私は、構造上不可能な場合を除き、引き出しは全てこの技法で製作している。強度的な強さに加えて、見た目の美しさも備えた、優れた木工技術である。




ーーー3/23ーーー 新木場の材木

東京の新木場から材木が届いた。長さ2メートル前後の角材を30本程度の数量である。アームチェアCatを作るために手配した材木だが、これで10脚ぶんをまかなえる。

 新木場と言えば材木取り引きの本場である。ところが私は、今まで新木場から材木を購入したことはなかった。もっぱら松本の材木店から買っていたのである。田舎の木工家にとって、新木場はどうも敷居が高いように感じていた。迂闊に近付くと、何かとんでもない失敗をしそうな不安があった。材木を買うという行為には、少なからず不安や心配がつきまとうものである。特に新木場のように巨大な材木市場が相手だと、うちのような零細木工所は、いいカモにされて捨てられるような気がして心配であった。

 そんな引っ込み思案な私であったが、ある人の紹介で新木場に顔のきく方と知り合った。その方のお導きで、新木場のある材木屋を訪ねた。新木場はそこらじゅうが材木屋である。お目当ての店に入ると、倉庫の中に山のように材木が積まれていた。

 あらかじめ私の希望は先方に伝わっていたので、ナラ材の束は山積みから抜き出して置かれていた。角材は厚さ巾ともにいろいろなサイズに分類されて保管されている。北海道の山で伐った丸太を現地で製材し、1年ほど自然乾燥させた後に新木場へ運んで保管しているとのことだった。材は全て柾目引きで、無地無欠点である。つまり、割れや節は全く無く、米国の木材等級であるFASグレーディングでは最高位の「セレクト」に相当する材である。このような品揃えの材木屋があることを知って、私は今さらながら驚いた。

 その材木を人工乾燥に入れ、仕上がったところで私の工房に配達してもらったのである。到着した材は、人工乾燥を終えても全く割れはなく、良い状態であることが確認された。好みのサイズで揃えた、すぐにでも使える状態の材木が、ファックスで注文をしてから1ケ月で入荷したことになる。これはとても便利な買い方である。

 材木屋の店員の話では、わずかな数量でも注文に応じるとのことであった。昔と違って現在では、そのようにきめ細かい対応をしなければ、商売にならないそうである。その点も、私のような小口の消費者には有り難いことである。

 値段は、丸太で買うやり方と比べて2倍近くになる。しかし、無駄になる部分が少ないことと、ハンドリングのし易さを考えれば、決して高くはないと思う。ある程度まとまった量の製品を作るには、このような材木の買い方も考慮されて良いだろう。



ーーー3/30ーーー 失敗

木工作業に失敗はつきものである。伝統木工の分野の名人と言われる人でも、失敗をするそうである。名人というのは、ミスをしない完璧な仕事人というのではない。他の人では真似できないような仕事ができる人を名人と呼ぶのだと聞いたことがある。

 先日ちょっとしたミスをした。今となっては「ちょっとした」ことだが、その瞬間は絶望の淵に落とされたような気持ちであった。部材に穴を開けるのに、位置を間違えたのである。そのような間違いが無いように、穴開けに使う型板には注意書きを施してある。にもかかわらず間違えてしまった。こういうときの絶望感は、いつもに増して大きい。

 間違いをしでかした場合は、すぐに気を取り直してリペアーすることを考える。穴だったら、埋めて分からないようにするのである。こういうリペアーにも、名人技が必要とされる。今回の私のミスは、リペアーがきかなかった。仕方なく部材を作り直した。

 昔何かで知ったのだが、山陰地方に算盤作りの名人がいた。その人は、毎朝仕事場に入ると、一番始めにすることがあった。それは神棚に手を合わせて祈ることであった。祈りの内容は、「今日も失敗がありませんように」だったという。




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